当神社の歴史           

諏訪大神信州入国の筋道に位置、旧社地「すわま」はしばらく御留りになったところという伝えがあり、そこに社を建て奉斎したという。室町時代初期ころ地滑りのため現社地に移転しさらに元禄年間に現在地に移転、覆屋が建てられた。旧社は古宮とよんでいる。

古くから諏訪大社との関係深く、角川日本地名大辞典には嘉暦四年(1329年)の関東下知状として「右頭、千国、小谷地頭等仁科庄遠江入道流鏑馬、三浦介入道知行分」とあり大社の行事には小谷もかかわりを持ち、諏訪大社上社五月会と御射山祭には出役を命じられている。

当社は小谷郷総社であったから小谷の諏訪信仰の中心的神社として、小谷からも奉仕申し上げた。長享二年、永禄八年、天正六年の諏訪文書により、下社春宮五間拝殿造営の頭役を務めてきたことが分かる。

 慶安二年松本城主は上田一反七畝二五歩、官免一畝二歩を神領として献じ、後農神守護の霊札をも納めた。昭和七年郷社に昇格。ご神木目通り周囲二七尺。


  本殿の建築

     
  一間社流れ造りこけら葺きの小規模社殿。長野県宝に指定された。

棟札により、江戸時代初期の元和五年(1619)に大町(現大町市)の工匠金原周防守(きんばらすほうのかみ)の造立である。

金原氏は国宝「仁科神明宮」を造立した。この地を治めていた仁科氏の格式の高い宮大工であった。

金原氏は何代もつづいており当神社は兼正の作である(長吉..吉次...兼正....)。

木鼻の形や、水引虹梁下面の錫杖彫り、さらに虹梁の眉の取り方など当時の細部様式を示している。社殿の一部には朱塗りであった跡もみられる。

県宝指定棟札 上部 下部    

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