薙鎌打ち神事の歴史

この神事の起源は不明ですが、古文書に登場するのは江戸期元禄年間の信越国境争論です。信濃の国と越後の国の間で国境を巡って争いが起きました。「信州側は白池が境と言っているが、境は横川までである」と越後が信州を訴え、幕府は御検知役2名他家来、総勢50余名で実地調査をし双方の主張を聴集し裁判となりました。この神事を、池のほとりに出向いて古くから行ってきたことが証拠の一つとなり信州側の言い分が正しいことが判明しました。

昔はこの白池の辺の杉の大木に打たれたのですが伐採され前掲の二社に打つことになりました。このことからも古くから行われていた事が分かります。ちなみに、当神社の最も古い薙鎌は平安期頃と言われています。江戸期の頃は大社から幾日も懸けて小谷に来て行われましたが、来られない時もあったようで、当神社の宮司が代行をしたと思われる古文書なども残っています。諏訪と小谷の地はあまりに離れているため、また、行政区画変更などにより、この神事の斎行も困難であり、明治11年から途絶えていたのですが、昭和18年地元の熱意により復活しました。 以来歴代大社宮司様により斎行されています。

古い神事の跡地 白池 現在新たに新築された

幕府の国境裁決図

白池の畔の昔の祠 当神社の古い薙鎌

神事と薙鎌の意味

@信濃の国境を示し、諏訪明神の神威の及ぶ範囲を示したもの。歴代宮司様の祝詞には「七年に一度の国境見として、.....」とある。

A諸難薙ぎ祓い、国土の平安と繁栄を祈る意味もあったと思われる。各地に御柱祭の年に「百姓無病息災国家平安を祈願して行われるものだから怠りなく祭祀に励むように」という大社からの差定め状が出されていることからもも想像される。       

       

鎌の意味の考察

上記の意味の他

 @健御方命(祭神の項参照)の国土開拓の道具であり、明神のシンボルである。大国主の治めていた出雲の鉄器文化をうけついだ諏訪文化のシンポル。) 

 A諏訪様は風の神としても知られており、風を凪ぐ意味があると思われる。薙は凪ぐに通じる。鎌  を高い竿に付けたり屋根普請などで屋根に打ち、また、「すいのう」と鎌を竿の先につけ風よけとする風習があることから、それらの風習とも結びついて風鎮めの意味を持っている。さらに諸難薙祓う意味も加わった。 

 B鎌を打つことによって境界やテリトリーをあらわす。

 C古い形はへびである。、へびは鱗を脱いで脱皮していくことから縄文の時代生命の再生を意味したと思われる。(地元神ミシャクジ神は蛇とも、諏訪様のお使いは蛇とも言われていることから地元神と鎌の形と関わりがあると思われる。)         

いずれにしても、諏訪明神の信仰は、地元神、八坂刀売神、健御名方神の信仰の重層した総体であるように、鎌の持つ意味も重層しているのであろう。

形の変遷

 古い形は蛇、または竜の落とし子のような形で鱗は鏨(たがね,)でたたいて跡をつけてある。 

古い形 嶺方諏訪神社(白馬村)

古い形 大宮諏訪神社最古の鎌頭部  (全長約60センチ)

古い形より太くなり鱗は切り込みがある。鳥の形になり鱗は鋸のようにギザギザに切り込む。

中期の形 江戸期の鎌

祝(ほうり大社神官)銘の鎌 表

裏 江戸(安政)の銘  

次第に鳥のような形になる(当社所蔵)

写真の転載を禁ず

明治期から現在までの形

s18年復活薙鎌

s24年薙鎌

s36年薙鎌

薙鎌の使われ方

柄をつけて神器とし、渡御行列の神輿の警護として持つ。

長い柄を付け行列の途上参集者の頭上に掲げ、厄難を祓う。

屋根嶺に打ちつけ風鎮めや祓いとする。

同じよなものに嶺方諏訪神社のさなぎ鈴があり、振って参集者を祓う。諏訪より按察使がもってきて祓いに使ったという。

御輿の警護のため捧持する。

長い柄につけ参拝者を祓う

さなぎ鈴

小谷村大宮諏訪神社

白馬村切久保諏訪神社

白馬村嶺方諏訪神社

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