(薙鎌打ち神事について )

大宮諏訪神社と諏訪大社との関係年表

時代     西暦    今から年前

崇神天皇   前97           武五百健命  信濃の国造となる 神武天皇の子孫で神八井耳命諏訪矢原の庄にて信濃国造として執政 続いて3代国造

                    武五百健命より6代金弓君舎人として金刺姓を賜る。

崇竣天皇   587645  1429−古墳後期  金弓君の子孫倉足 諏訪郡の領となる。

                      武五百健命の末孫 二品王随臣をして白鳳年間国境巡視し小谷「諏訪間」に御祭仕え奉り薙鎌と鏡献上。諏訪大神の国形見にならいこれより後世に至るまで諏訪大神部の職となり七年に1度規定の巡行の折、頭役状神官に渡し薙ぎ鎌神殿に納め祝詞奏上 終りて国境巡視を定例とす。この時南北小谷より頭主神饌を荷ない来りて当社に献ず。二品王の随医宮林身(クルマと訓じ)宿禰の居住地を後「来馬」と改めた。彼の歌というもの2首あり。               

孝徳天皇大化元年 645   1371飛鳥   金弓君の子孫 金刺乙叡 下社大祝となる

弘文       672         壬申の乱の折 金刺氏天武帝側につき 挙兵騎馬隊を持って素早く応戦し戦功あり。以来1070代朝廷の信任厚く金刺祭政体確立

持統4      691          持統天皇風鎮祭諏訪大社に命ず 国の中央にある風鎮めの神として重視

養老2      718  1298前奈良  大宮諏訪神社創立ともいう。

養老5年      721  1296     諏訪国定まり信濃の国より独立す

桓武延暦20    801  1216前奈良  蝦夷征伐成功の恩賞として諏訪大社に信濃の国の祭許可される。 下社に朝廷より女神祝印下賜。    

平城元年大同   806  1211平安   諏訪大社の信濃の国大祭式年造営始まる

後一条2寛仁元  1017  999平安    諏訪大社信濃の国一の宮となる。 

嘉暦4     1329  687鎌倉末  鎌倉幕府下知条 上宮五月会付流鏑馬の頭花会頭 同御射山頭役結番 相模守平の朝名にてあり

応永23     1412  600室町初  飯森山城守盛照小玉神社 (大宮諏訪神社のこと)建てる。

文亀元年     1501  515戦国初  山崩れにより州浜より現地に神社移転

永正15年     1518   戦国初   金刺昌春が 上社と抗争し 諏訪頼満により滅亡 後 武居氏大祝となる

天文       1532  484 戦国   神宮寺開基 文化3年諏訪神社別当神宮寺となる

弘治2年     1556  460      平倉城落城 後 武田氏直封の武将小谷七騎信玄の旨により祭事造営司る 後 松本藩主に属し領主代として国境鎮護の守として尊崇厚し

天正年間〜江戸初 1573−        下社の経営策として全国に薙鎌配布するようになる            

元禄10年     1697  675江戸   差状 頭役状武居祝金刺政妙 出す小谷郷宛 諏訪南宮明年頭役の事 右大御神事天下太平国土豊穣総百姓中息災延命御祈祷也

                    先例に任頭役如件

元禄13年     1700  687     越後山口村信州小谷を国境問題で幕府に訴える 

元禄145月   1701  677     松本藩 永田重堅 越後信州国境裁判の勝訴祈願当社にあり 

元禄15年     1702  676    石坂村半右エ門 国境論争裁許見聞覚書 神主出雲に提出

正徳5年     1715  299江戸中期 差定 武居祝金刺信満 諏訪南宮明年頭役の事

正徳6年     1716  300     装束許状 杉本伊織宛  武居祝金刺信満 

享保18年    1733  283      差定 武居祝 金刺信満 諏訪南宮明年頭役の事

元文4年     1739  273     差定 武居祝金刺信員 諏訪南宮明年頭役の事

寛保元年    1741  275      装束許状 杉本出雲宛 武居祝金刺信員

宝暦13年    1763  253     差定 武居祝金刺信員 諏訪南宮明年頭役の事

安永4年     1775  243     差定 武居祝金刺 諏訪南宮明年頭役の事

寛政5年     1793  223江戸末  差定 武居祝金刺信行 諏訪南宮明年頭役の事

寛政11年    1799  217     差定 武居祝金刺信行 諏訪南宮明年頭役の事

文化8年   1811  277    差定 武居祝金刺信惇 諏訪南宮明年頭役の事

天保7年   1836  180    八月松本城主 国境の農神守護として当社に農神守護の霊札祈願あり 大凶作にて衆人困窮す

同              諏訪大社代理として当村庄屋 口上を以て横川 戸土 中股宛薙鎌神納 庄屋太田勘介之丞 庄屋佐曾右エ門 組頭甚左エ門

弘化5年   1848  176    諏訪大社代理として当村庄屋 口上を以て横川 戸土 中股宛薙鎌神納 庄屋太田土佐之丞 庄屋佐曾右エ門

明治4年   1872  145    諏訪大社上下統合 薙鎌打ち神事下社から離れる

明治11年  1880   138    薙鎌神事打ち止め 行政区画変更 神社統合 祝制廃止等の理由による 頭役の依頼状は当社宛にあり

昭和14年  1939   77    仲股小倉明神の神木県の天然記念物となる 県史編纂のため調査中神木に埋もれた薙鎌を発見したのが契機

昭和15年            郷社昇格請願県知事宛行う 当社は官幣大社諏訪明神と関係深く旧諏訪国領に属し古来当社を南宮諏訪大明神または大宮大明神と称し神代諏訪大神の御国巡りの神蹟小谷郷の鎮守として領主武将の崇敬厚く・・ 

昭和18年  1943   73    上記薙鎌発見が契機で地元氏子の熱意により薙鎌打ち神事復活 大社