文政五年雨飾山登山記
資料提供解説  郷土史家 登山家 渡辺義一郎氏(清瀬市在住) 
        その1
天錺山蘇鉄ガ岩洞の縁起
         
 そもそも天錺山、そてつが窟と申すハ人王45代聖武天皇の代、行基ぼさつ、そてつがいわほに王宮十代の間こもり、年月をくること人王五十四代仁明天皇の御宇承和三年甲寅三月まで、岩洞にこもりたると音にきこいる、場所しれず、そてつがいわばたつねんと、長崎喜平治を始め、清水山五右工門、白岩平蔵、日春間重兵衛、くぞぞうれ庄右エ門、一同外に白岩二朗左エ門、半の木平彌兵衝、此七人の者共、六月十五日天錺山の二のかたいはせのぼり、つるぎむねを通り行き、そでつがいわほをこいにして、つよ風たつもくにせずに、ひしのくさ木ヲわけたづねめぐららせ給へ共、そでつがいわばの場所しれス。日ハ西山に罷成り、つるギがむねをたちかいり、雪の大くぼにミなミなやどりける。
 われらいとけなきときころよりも、三光日月めうじよい、深くたのミをかけ申し、此そでつかいわばも、三光日月めうじようい、きせい申したつねんとて、雪のこうりを、水として三十三度のこりをとり、三光日月をいのり申し、よいのめうじやう、のふまんこくうぞう大菩薩 よながのめやうじやう大まんこくう、なが月めうじやう、ふんまんこくうぞう、三光めうじやうイ、なむやだイ志大ひのたもん天、われら年月日、あゆミをはこびし御里しやうニ、そでつが岩ばヲをがませたまひと、かんたんヲくだきて、イのりける、并二九曜七曜二十八しゆくの星を、三拝百拝して御りしやう今やと、まちいたる、夜もやうやうと、ふけゆけば、天門よりもめうじやうの御来光あり、御りしように、天より星ながれをち、そでつが岩ほに御りしやうあり、そでつが岩ばのひしくずれ、山二魑魅ヲひらかせて、大うみ川原イおちひびきたまい、ありがたや、五こうの天もあけゆけば、日くわのごらいこうヲ三拝九拝してそてつが岩ばをたつねつけ、ミなたちよりて、九拝して、ありがたや行基ぼさつノ石仏くわんおんヲ、ミな−同に九拝して、わがやわがやとたちかいり。
解説
杉本好文先生によって本書冒頭に発表された古文書を、雨飾山文書と仮に呼ぶことにする。この文書には、文政五年六月二十三日、八十八人の人々が雨飾山に十三仏をかつぎあげるという集団登山を行い、その日山中にて一泊したことが書かれてある。文章としては縁起書という形をとっているにしろ、事実を元に書かれたものであり、登山した人々の署名がある点と、十三仏開眼に立合った僧侶の証明があることは真実の話として充分証明できる。
後半の塩六という猟師にまつわる阿弥陀仏の話は「大網村中谷村白岩此三ケ所阿弥陀の縁起」として書かれており、この地方にいくつか伝わる、雨飾蘇鉄ガ岩屋の民話とほゞ同じであり、おもしろい。
この雨飾山文書について前半の登山紀行の一部を、浅学ではあるが、私の出来る範囲で解説をしてみた。  

そてつが窟=蘇鉄が岩屋
地元の人の話によると、雨飾山の南面に サイカ゛岩屋という所がある。また雨飾山の岩屋という所もあるそうだが詳細は不明である。この二つの岩屋かまた別の岩屋かはわからないが、雨飾山にはクマ打ちの猟師の泊まる岩屋があり猟師のおきてとしてそこで一泊したら次にそこに泊まる者のために、木を切って薪を二、三束つくっておかなくてはならないという。

行基 (六六八〜七四九
 奈良時代の高僧行基については、河内の大島郡(今の堺市) の生れであるというのが定説であるが、「日本霊異記」には越後頸城郡の人という異説がある。また行基が全国を歩きまわったという話はとうてい無理な話であるという史家の意見が真実であろう。
しかし雨飾周辺には行基に関連する寺や伝説は多い。小谷村大網にあったというお堂西明庵(明治年間焼失) の阿弥陀像。糸魚川市の根知谷、根小屋の薬師堂の薬師仏は行基作といわれ、その真偽はともかく行基仏はかなり伝えられている。
また糸魚川市の早川谷には「行基がライバルの智光法師に憎まれ、この地に逃れ、焼山のあたりから信州に逃げた」との伝説が伝っている。
彼の生存年限と文書の承和三年 (八三六)は合わないが、この行基がこもっていたと伝えられる岩屋を尋ねようというあたりから文書は真実性が出てくる。

地 名
 長崎・清水山・白岩・日春間・くぞそうれ (葛草連)・半の木平はみんな村の名である。
                                                                     六月十五日天錺山の二のかた
この年の六月十五日は文政五年より二・三年位以前と考えられる。この時七人が行ったそてつが岩屋さがしの登山を機に、文政五年の登山が計画されていく。

二のかた=二ノ肩
雨飾山のピーク下方の尾根をいう。人間でいうなら肩の部分(頭をピークとみて)。

つるぎがむね=剣ガ峰
位置不明だが、雨飾山南尾根1部の岩場か、西尾根の頂上近くの狭い尾根か。

雪の大くぼに皆々やどりける
旧暦の六月十五日は今では夏である。つるぎがむねを越えて岩屋をさがしたが、見つけることができず、又つるぎがむねを戻り残雪のくぼみに泊ることにした。沢すじの残雪のシエルンドのかげか、原生林の残雪のくぼみに泊ったものか。

三光日月めうじよう・・・・
日 月 星 を三光というが、冬の星座として有名なオリオン座を日本では古くから三光といった。明星は金星である、よながの明星は木星のこと。、九曜はおうし座のプレヤーデス星団をいう、すばる(昴)星のことであり、七曜は北斗七星のこと。

 二十八しゆくの星(二十八宿の星)            
 中国から伝わった星の名で、すぼし。あみぼし。ともぼし。そひぼし。なかごぼし。あしたれぽし。みぼし。ひきつぼし。いなみぼし。うるきぼし。とみてぽし。うみやめぼし。はついほし。なまめぼし。とかきぼし。たたらぼし。えきへぼし。すばるぼし。あけりぼし。とろきぼし。からすきぼし。ちちりぼし。たまをのほし。ぬりこぼし。ほとをりぼし。ちりこぼし。たすきぼし。みつかけぼし。の二十八をいう。
 いづれにしろこの項、ありとあらゆる星や仏にそてつが岩屋が見つかるように祈ったということであろう。

大うみ川原
 雨飾山東南面大海川は中谷川の支流で雨飾山が水源である。

 わがやわがやとたちかいり
 これで「天飾山そてつが岩洞の縁起」の部分が終了したと考えてよいと思う。続いて「雨飾拾三仏の縁起」に入る。

            10月7日修正       その2 拾三仏の縁起 はここをクリツク