文政五年雨飾山登山記 資料提供解説 郷土史家 登山家 渡辺義一郎氏(清瀬市在住) |
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その2 あまかざり拾三仏の縁起 |
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ほとけ、こんりやうの心をかけ、数年来イ、ねん仏ヲ申て、諸人しゆじようがためニ、十三仏ヲこんりやうして、こうをツミ、くどくをかさね、なんぎやうして、五人の物共が数年らい、申しつとめためた念仏を山とつくならバ、天錺山ミねよりも、なをまさるとて、音に聞えし、天竺のだんどく雪山の山も、日本にかざるべしとて、十三仏を、こんりやうして、菩提所イ願上奉、天錺山イ入仏いたし、かいけんにハ、玉泉寺十三代禅梁和尚、同弟子愚門、あとに続き五人の物共、人足八十三人都合八十八人の人数なり、文政五年午の六月二十三日くぞそうれ庄右エ門方より出立仕候て、天錺山ふもとの沢い、つきたまへバ、まんまんたる雪の道、沢をふみならし、峯ふくクる風のはけしさハ、雨土をくつがいしけれ共、其日は青天ニなりば、大日山、ふどう山、みだがたけ、三つの峯、あがらせたまへば、くうくうまんまん、山海見向の、三つ峯イのぼりて、天錺山の難行の苔の遭、くどくむなしきことあらじト、此石仏を十三体たてれバ、玉泉寺十三代禅梁和尚、同寺愚門差向トさしむかえて、われ、ほう賛して伺公す、まがさツ杖をもちたまいて、あのくたら三ミやく三ばたい、摩かえん今現 十三仏供養、千仏供養、一仏出世、一仏供養千仏出世、三世通通連之妙、普現証誠化応とトなへ、三拝九拝させたまへハ、西方より、やりがたけ、のりくらの山二続き、法かい明楽のひかり輝き五色の雲をたなびキ、正覚ケの仏生の蒼ふりくだりて、十三仏始め、もろもろのほとけ、五色の雲の上に来現ましまして、平等衆生のせいかんすミやかに、じやうじゆ、したりけり、人中の内、あく人あるとも、つミハ霜にあさ日の照りますがことくに、めつし、供養修まれば来現ましましたる、十三仏もろもろのほとけハ、五しきの雲ともろともに、こくうのうてな、西方イ人たもう、又日は西山に罷成り、入日の御来こう三拝九拝して、八十八人の人々が、其夜ハニノかたの、ミたらし池のはたにとまり、玉泉寺和尚弟子始め八十八人が一同、三外しよ仏ヲ礼拝したまへうちに、夜もやうやうとふけゆけハ、天門より明じやうのこらイ光あれば、よもほのぼのと明けキたり、玉泉寺始め、あとに続き五人の物共外に人足八十三人都合八十八人の人々が、あさ日の御来光三拝九拝して、日ハ青天二相なりて、目出度御出ヲ帰宅して、わがやわがやといりにけり。
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解 説 |
拾 三 仏 死者の菩提を祈る時の本尊として選ばれた仏像で、祈る日によって各々十三の払がある。鎌倉時代未頃 考えられたという。 不動明王 ー 初七日 釈迦如来 - 二七日 文殊菩薩 - 三七日 普賢菩薩 - 四七日 地蔵菩薩 - 五七日 弥勒菩薩 ー 六七日 薬師如来 - 七七日 観世音菩薩 - 百ケ日 勢至菩薩 - 一周忌 阿弥陀如来 ー 三回忌 阿閃如来 - 七回忌 大日如来 - 十三回忌 虚空蔵菩薩 - 三十三回忌 現在雨飾山頂には西峰に石祠と四体の石仏が越後側を向いている。東峰には三角点とケルソがいくつ か立っているだけ。 昭和三十七年発行、藤島玄著の「越後の山旅」"妙高中心の山々"には「雨飾山の頂上は小さい双耳峰をなしていて、西方には石祠と小さい阿弥陀三尊、大日如来、薬師如来、 不動明王らしい石仏が安置され、僅か離れた東峰に三角点と地蔵菩薩、薬師如来が祀られてある。」とあるが、現在では、東峰の二体の石仏は無い。 また越後の人が阿弥陀三尊をかつぎあげたという話もある。いったいこれら十教体の石仏はみなどこへいったのであろうか。 冬の間に倒れ、谷へ落ちたものか、風化してしまったものか。心ない者のいたずらで頂上から落されてしまったのか。それとも土中にうもれてしまったか定かでない。 梶山で古老達から開いた話では、現在雨飾頂上にある石仏(お地蔵さんと老人達はいう)は根知谷で上げたという。阿弥陀三尊があるだろうと老人は言う。越後の方を向いているのは越後で上げたもの、信州の方を向いているものは信州で上げたものだという。 明治の中頃根知谷の村中で何体かの石仏をかつぎ上げた。この時、山寺金蔵院の住職が石仏開眼のため一緒に登山したそうである。 石仏をかつぎ上げる時、石仏をかついだ人を縄で引きあげ、補助して登った。この時頂上まで道を切ったそうで、毎年夏の一日、村の役員が酒をもって頂上へ登り薬師様をはじめとする石仏に酒をあげた。そして参拝の登山に来る人に酒をふるまった。 大風が吹くと頂上のお地蔵様をいじめた者がいるんじゃないかと、村から人足を出して頂上まで石仏を見忙行った。石仏が無くなっていると谷へ落ちたのかと、これも人足を出し各谷へ見に行ったものだという。 古くは雨飾頂上の所有について越後の領地だ、信州のものだとの争いもあったりして、頂上の石仏にとんだトバ゛ッチリが及んだこともあったかもしれない。 玉泉寺 長野県北安曇郡小谷村中土に現存する名刹。曹洞宗、宝降山玉泉寺。文明年間の開創と伝えられる。 天鋳山ふもとの沢・・・・・・ 文政五年六月二十三日、葛草連の庄右エ門宅に勢ぞろいした一同八十八人は、どの沢すじをルートに雨飾山へ登ったのであろうか。 考えられるルートは小谷温泉より大海川に至り、荒菅沢を源頭の右俣草付きから笹平にぬけるもの。これが最も有力であろう。荒菅沢は八月でも残雪があり、岩場の左俣とちがい右俣をルートにとれば雨飾山の肩にあたる笹平へは簡単に出られよう。 いまひとつ考えられるルートとして、湯峠道を前沢または仙翁沢に至り頂上へぬけるもの。前沢(迷い沢)奥壁の左ルソゼは古くから、猟師の下降ルートであった。仙翁沢は戸土、横川あたりの人達が五月五日の雨飾山の風祭りに登るルートである。 しかしこの二つの沢は、少々中谷川ぞいの村からは遠すぎる。湯峠を越えてわざわざ下って行くのは能率が悪いように考えられる。 |
大日山、ふどう山、みだがたけ 位置不明。地元の人の話では雨飾山のどこかの峰に大日如来、不動明王、阿弥陀如来をお祀りした所をこのように呼んだのかもしれないとのことであった。 二ノかたのミたらし池 ニノ肩の御手洗池とは、雨飾東の肩、笹平にある畳二枚分ほどの池塘のことであろう。登山道のすぐ近くの窪んだ所にあり、そばまで通がついている。 雨飾で完全な池塘といえるのはこの池位で、水もきれいで御手洗の名にふさわしい。 池の周囲は背の小さな笹と草の原で、八十八人の人達がこの他のほとりで、それぞれどのような姿で寝たのであろうか。 雨飾にはこの他、梶山側からの登山道の途中に中の池があり、頂上直下には雨池というのがある。 他にも笹の中にうもれた小さな水たまりもあるが、いずれも雨水のたまったような池で、水は濁っている。 いずれにせよ池塘は百五十年もたてばかなり変化しよう。 梶山で古老に開いた話では、私達登山者のいう笹平は雨飾のハラノコシといい、雨飾の三つの池は下から中の池、原の池(御手洗池のこと)、と今は雨池と名のある頂上直下の無名の池がある。 真柏取りに行くと原の池の水でメシをたき、はい松の下で寝た。原の池はけっこう大きく水はきれいだったという。 登山者署名 同道引くそぞうれ (葛草連のまちがい)庄右衛門とあるのは、この文書の所蔵者小谷村田中在住の室谷福一氏の御先祖である。 人仏の日の人足せわやきの一人に、あつ湯条吉とあるのは現在の小谷温泉熱湯の御先祖と考えられる。 人足の中にせんのうそう木地や弥助の名がみえる。せんのうそうは仏翁沢か仙翁草。木地屋はロクロを使って椀や盆など作る職人のことであり、彼らが定住していた八百平は仙翁沢の近くにある。明治末年にはまだ一戸が残っていたという。 新潟大学高田分校教育学部の研究紀要第一号(昭和三二年刊)中村辛一氏の研究として『大所木地屋部落について』があり、それに「寛政四年(1792)いなると小掠幸左衛門・同弥助の二家が飛騨から大所に移住した。このうち幸左衛門家はここに二十年間居住ののち文化九年(1812)信州小谷来間山へ移り(幸左衛門文化二年死亡、このとき二代滝右衛門)、五年後の文化一四年(1817)高田藩の依頼により、頸城郡関川在の杉の沢の山内笹が峰へ移った。他方、弥助家は文化二年(1085)信州北城青鬼山へ行き、同12年北小谷八百平へ移住していたが、ここで分家二戸をだし都合三戸になった。やがて弥助家一族は、附近の山木伐りつくし、あらたな移住先に苦慮しているとき、笹ケ峰の滝右衛門から誘いをうけ、文政七年(1824)同所へ引越した。」 と弥助の名が出ており、雨飾山登山の二年後に笹ケ峰へ新田開拓のため引越している。 越 後 国:... 署名の終りの方をみると越後の国の人が十六人ほど参加しているのがわかる。 能生の小泊、糸魚川の竹ケ花、大野、早川谷、は今もすぐわかる地名。野尻は長野県野尻湖そばにある 野尻か?。 越後の人はおそらく小谷温泉に湯治に来ていてこの登山に参加したものであろう。 証 明 最後に玉泉寺の登山証明書があるが、この日付は登山より二年後の文政七年である。 |