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復活薙鎌祭の思い出  
小谷地方に残る諏訪大社宮司の書

語り手
大宮諏訪神社名誉宮司  
杉 本 好 文
       
聞き手 
薙鎌を知る会会長
    林    操
                                 はじめに
諏訪大社の御柱祭も2年後と迫り御柱の見立ても始まったそうである。来年平成15年9月1日(月)には当大宮諏訪神社の薙鎌打ち神事が戸土の境の宮で斎行される予定(まだ大社宮司様の了承は得ていない段階であるが)である。これを皮切りに御柱祭(正確には式年造営御柱大祭しきねんぞうえいみはしらたいさい)に向けての動きが活発化していくわけである。境の宮も過疎化し、氏子の方々も散り散りに糸魚川市に下ってしまわれ、危ぶまれたが、お願いに伺ったところ快く協力していただけることとなった。小谷にはこの神事にいらっしゃった諏訪大社宮司様の揮毫が残っている。これを紹介するとともに薙鎌神事の思い出話を掲載し、皆様のご関心を期待するわけです。
この神事は一時中断したそうですが、復活の頃のご苦労についてお伺いします。           

明治の始め頃まで古くから、中土の大宮諏訪神社に於いて行われて来たこのお祭りを、旧規に復そうではないかと、話がもち上がったのは、昭和十六年頃であったと思う。
 それは昭和十四年に戸土の小倉明神社の神木が、長野県天然記念物に指定された事が、刺激となったのであった。信濃史学会長であった栗岩英治氏が、国境辺の史料調査に来て、その神木に偶然薙鎌を打ち込んであるのを見つけ、鎌の背の部分が1Cm位まだ見えていたのが幸いであった。戸土、横川集落は中土の枝郷であり、大宮神主の家には江戸時代の諏訪との関係文書があるので、氏子有志の中から復活の話が出て総代会や地区の区長会等を行い、それからぼつぼつ文書を見つけたり、由緒を綴ったりして諏訪大社へ請願文を出す用意をして諏訪大社の宮司にお願いに代表が行く事となった。 昭和十七年の内に決定しなければ十八年は薙鎌祭の当年である。当時は官幣大社であり宮司は志賀正光氏であった。私と相沢多久治総代と二人で陳情に下諏訪秋宮に於いて宮司に面会した。宮司は薙鎌についてはあまり知らなかった様子で、こちらの話を聞くだけで結論は出ず、上社、本宮の守矢祢宜とも話すように言われたので、色々諏訪明神の話や、秋宮、春宮等を参拝し、日を改めて上社に守矢さんを訪ねる事として帰った。(守矢さんは昔から神長官の家系で諏訪大社の事は詳細御承知の方である。)
 次に私と氏子総代太田巌氏との二人で上社に守矢祢宜を訪ねた。薙鎌祭復活の話の外に祭神についての話合いをしている間に意気投合し、自宅まで案内して下さり勅使の間や諏訪法性の「かぶと」も見せて頂き、話も宮司さんと打合せる由承って帰宅した。その後県庁に社寺兵事課を訪ねて、県の了承も得るように言われて県庁に参り、県の奥谷祭務官に了承を頂き、これで薙鎌祭 翌年執行の基礎を作ることが出来たのであった。 次は戸土地区の了解を得るため、太田巌氏、相沢多久治氏、太田清輝氏、私と四人で出掛けて薙鎌打ち神事を復活することの了承を得た。 戸土へはその後祭事の打ち合せに行き、祭日や準備の事など、三回ほど戸土へ通った。
   
            第一回の折りの志賀正光宮司の揮毫 

小谷村北小谷深原 山本静人氏所蔵
                      
谷温泉にて
              いで湯する小谷の里は
            秋たけて
               丘の
                 紅葉葉
                         路も狭に散る
  第一回 薙鎌祭
一回目は 境の宮へは峠を越え徒歩で行かれたとか。大変だったでしょうね。
 今は八月下旬当方神社の例祭と合わせ行われているが、昭和十八年の第一回目は古祭に合せて十一月特別大祭として執行した。 諏訪大社からは宮司志賀正光さん、祢宜守矢真幸さん、県庁からは奥谷祭務官の三人が参向され村内外からの来賓多数参列されて盛大に大宮に於て執告祭が行われた。 戸土へは山越えで行くことになったので祭事終了後小雨の中を徒歩で小谷温泉に向って出発、山田旅館で一泊。翌朝温泉の裏山の峠を越えて山路を約三里徒歩で行くので、山道に慣れない人達にはご苦労であったと思われる。生憎の雨で山道もぬかり、柴をしいてぬかるみを渡って行った。大社宮司様には「宮司をこんなひどいところ連れてきて歩くかせるのか」とお怒りになられた。時期は秋であったので、「コームケ」という茸をとったり、山の紅葉を眺めたりゆっくりと歩いて戸土についた。 戸士分校でお昼を頂き、午後祭事を行ない軽く直会を行って、糸魚川へ出て一泊、料亭で疲れを取ってもらった。
 宮司さんたちは国鉄で直江津から長野廻りで帰って頂いた。中土の人達は小滝駅から歩いて帰った。
 なぜ山越の峠道を戸土へ向ったか、今の人達には想像もつかないことであるが、当時は戦時中で国鉄も不通箇所が長く、自動車もバスもなく、歩くのが普通で、国民服にゲートルを巻いて旅をした頃で 足も丈夫であった。


薙鎌写真
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写真 
 一回目の折りの写真
 
湯峠を下り戸土に向かう途中で
右より二人目志賀正光諏訪大社宮司 
次守矢真幸祢宜 次県の奥谷祭務官
 下を向いている人の後ろ杉本宮司 
その右神社総代薙鎌を背負っていた。